池ノ上 辰山 (元曙山)

根来塗を求めて。

幼少の頃父の骨董の中から根来塗を知り、爾来 根来塗を追いかけて参りました。その中に師である河田貞先生(根来塗の至上の学者)との出会いが私の人生を大きく変え、幻であった根来塗の復興と言う夢を私に授けて頂きました。紀伊国、現在の和歌山県岩出市根来の地で往時の根来塗を復興させたいという気持ちの中で、師の研究と私の漆工の技術との二人の考究により、往時の根来塗が今此処に蘇りました。

根来塗について。

根来塗は上の朱が減り、下の黒が見えるまで使い続けることが出来る。即ち木と塗りとの間の下地が厚く強靭で、用に耐える下地があるからこそ本当に使う事の出来る堅牢な漆器が出来上がります。下地で大切なのは頑強な布を漆で張り、それが見えなくなるまで下地をする本堅地が基本となります。中世の動乱の時代の中で下の黒が見えるまで使い続けることが出来る漆器はその事により生まれます。布を張り込んでいなければ本体自身が割れてしまうので何の意味もありません。本来、根来塗とは焼き物より強いと言われた所以です。

後進の人達へ。

私は後進の人達に根来の地(和歌山県岩出市根来)での根来塗を作って頂ける様努めております。「根来塗の基(もとい)は下地にあり、下地の基は箆立てである。」と申しながら 箆立て (箆を塗師屋小刀で作ること)を教え、弟子達に箆立ての階級を決め、励むように努めてもらっています。

原材料への想い。

将来において、漆が不足することがないよう、また、和歌山の漆で根来塗を作れるよう日本の漆という原材料が少ないため、10年程前から根来山げんきの森にて漆の木を植林し、年に数回根来塗を勉強している皆様とともに下草刈りを行いながら漆の木の世話をしております。将来において和歌山の漆だけで根来塗が作れるよう願っております。

根来塗の現在。
辰山の根来塗として。

この度、私を応援して下さる方々、また私の作品を使って頂いている方々、私の周りの方々の力で国から文化庁長官表彰を頂きました。私は河田先生より号を二つ頂いており、後に使うようにと言われた号を曙山から辰山に襲名致します。頂きました文化庁の文の中に、私が〝根来塗の保存・伝承に尽力し我が国の文化財保護に多大な貢献をされました〝という一文があります。これは私の作る「根来塗」を認めて頂き、保存と伝承が日本の文化財保護に寄与したことになると思っております。和歌山には根来寺があり、色々な根来塗があります。その中に基として私の作る「根来塗」があります。

私の想い。

私は和歌山の多種多様な根来塗こそが本物だと考えております。

根来塗師 池ノ上 辰山

先生
椿椀椀
椿椀 内
椿椀 内(辰山作)
椿椀 内(辰山作)

12年間使用した椀。

私の作りましたこの椀は、神戸の天麩羅料亭(メーザエスタシオン)で12年間使われていた椀です。初め朱一色の椀が、使い込むことにより美しい景色が現れ、傷さえも味となり、新しい時よりも魅力的な椀として見ることが出来ます。

なぜか。

塗りと木の間の高度な中世の漆下地が厚く強靭で用に耐え、厚い布張りをしている為に本体が割れず、だからこそ上の朱が減るまで使いつづけても剥離もしないで、根来の本来の美しさである移り変わる曙のような景色を見せています。