白洲 信哉 白洲 信哉

 根来 河田先生

 河田貞先生とは東京のある大店で時折挨拶する程度ではあったが、滋賀県のMIHO MUSEUM朱漆「根来」展、図録ポスター制作に携わることになり、何度かお話しをした記憶がある。祖母の正子と、京都で鍋を食しながら、愛玩している根来塗だけではなく、広く古美術全般に、特に仏教美術のお話しなどでお付き合いがあったようだ。

 僕は「根来」こそ、日本らしい「美」であると思う。黒の漆に朱漆を重ね塗りすることにより、華やかで堅硬な木製品が完成するのだが、長年の使用により、その上塗りが禿げ、下地の黒との色模様が、経年変化という歴史が創造した「美」だからである。だが、「根来」の完成形というものはなく、現在進行形で、使い手の日常が偶然の美を生んだのだ。

 秀吉による焼き討ちで消滅した根来寺に由来する産地を復興し、河田氏の師弟関係にある池ノ上さんは、根来寺一山内において河田氏の“根来の提唱”に基づき往時の根来塗を産地「根来寺根来塗」としてその技術を継承しておられます。

 今後の更なる発展を期待します。

MIHO MUSEUM
桑原 康郎 桑原 康郎

 根来塗ホームページに寄せて

 河田先生とのご縁はMIHO MUSEUMのオープン、1997年からです。お会いする度に、いつか「根来展」を、とずっと気にかけて下さいました。具体的に動き出したのは、MIHOが15周年を迎えた2012年の夏。2013年秋を目指しての準備でした。

 先生が執筆され紫紅社から出版された「根来」を下敷きに、ご所蔵者をお一人おひとり訪ねて回りましたが、どこでも大歓迎され、昔話に花が咲き、大変楽しいひと時を過ごしました。思い出に残っているのは東大寺さんをご訪問した時のこと。お会いした皆さまが先生の昔からのお仲間や後輩で、ひとしきり昔話しをした後で先生が「展示替えがあるので日の丸盆を全部借りたい。」と切り出すと、「前例がない」と目を丸くして顔を見合わせていらっしゃいました。結果、11枚すべてお借りでき、またとない貴重な体験をさせて頂きました。

 池ノ上さんとお会いしたのは、先生と根来寺をご訪問した時だったと思います。門前に位置する岩出市民俗資料館さんの工房でのことです。先生とお二人で研究された工程を一つひとつ大切に作業されているお姿が印象的でした。また、展覧会用にとお願いした作業工程のビデオ撮影も楽しい思い出です。

 根来塗は豊臣秀吉による根来攻めにより途絶えてしまいます。しかし、文献に根来塗が登場するのはそれ以降なのです。私は、根来寺が焼打ちになったことで、寺の什器であった根来塗が巷間に流出し、皮肉なことですがそれによって根来塗の優秀さが広まり、江戸時代中期にはその名が朱漆器の代名詞として使用されていたと考えています。明治維新後には、廃仏毀釈によって各地の寺院からも大量の朱塗りの什器類が流出し、根来寺由来以外のものにもその名が冠されたのでしょう。現在では、大英博物館、メトロポリタン美術館などでも「Negoro」の名で収蔵品の検索ができ、国際的な名称にまでなっています。

 根来寺由来でないものに「根来」の名称がつく混乱に対し、「根来塗」と区別して一定の定義を与えたのも河田先生でした。その定義に沿って工程を検証し、実行されたのが池ノ上さんの根来塗、500年以上昔の「根来」の姿が再現されたのです。私はこの意味でも池ノ上さんの仕事に大変期待しています。「根来の美」の追求からよみがえった工法を継承し、500年後の美術品を生み出しているという事実です。そして、この根来塗がその真価を発揮するのは美術館などではありません。実際に使われる信仰の場などに、もっともっと入ってゆくことを切に願っています。

河田 貞夫人 河田 和子 河田 和子

 遠く離れた東北から関西の地に根付いて50年大きく花を咲かすことの出来ました事はひとえに皆々様のおかげと、感謝申し上げております。根来の本を出版して以来その朱の色に魅せられて心の奥で深い憧憬の念を抱いていたことでしょう。

 主人と池ノ上さんがお会いしたのは3、40年前、辰山さんが二十歳代の頃でしょうか。京都、奈良、東京、池ノ上さんの工房などいろいろな所でお会いしていたようですが、家の方にも時折こられ私の料理を主人と池ノ上さんと私でよく食したものです。また、この度は産地のホームページに掲載し根来塗の提唱が皆々様に知ってもらうことは、主人も喜んでいることと思います。

 和歌山の根来の地で発祥した漆塗りの器が、全国及び海外にも広く広まって皆様方が愛してやまぬ器となりますように心から祈っております。

根来塗師 池ノ上 辰山 池ノ上 辰山

 先生と初めてお会いしたとき、「私の方が、齢がいっているので短いお付き合いになるかも分かりませんが宜しくお願いします。」と言われ、お付き合いが始まりました。美術館、博物館、お寺、いろいろなところに足を運び、根来塗を中心に仏教美術とそれを愛している人、またそれに関わっている人たちと話し、また意見を交わし、その輪の中で根来塗を見て参りました。

 ある日のこと、別宅のマンションにお邪魔すると根来塗の椿皿(つばきざら)にシュークリームが乗っています。よく見ると明らかに図録にも載っている室町のもので、しかも金属のフォークが付けてあるではありませんか。私が恐るおそる頂こうと思っていると先生は「根来は丈夫だから、普段に使う事が出来る。」とお話しになりました。自宅で食事を奥様に作って頂いたとき、この様なものに盛り付けてもいいのかと思うほどの名品にお料理が入っており、感動すると共にこれを傷つけないで食事をする事ができるのだろうかと心配したものです。そんな時も「使う事が出来なければ何の意味もない。」と当たり前のようにお話しになられ先生の人柄を垣間見る思いでした。

 和歌山に根来塗を里帰りさせたいと師に相談したところ、大蔵集古館での「ねごろ」展の後、そのまま和歌山に持って来れば良いのではないかとの話から尽力して頂き、和歌山市内にあるフォルテワジマにて「根来寺根来塗―遺品・歴史・技法から曙山の知己までー」を河田貞先生監修の元、開催しました。素晴らしい遺品から現在の作品まで、そして特別企画として全国からメディアを通じ古物の所謂「根来」を集め2人で根来塗の提唱を元に分類し、皆さんの前にて二人で鑑定していた事心に残ります。 師の積み上げられた知識と私の漆芸の技術の集結、また根来塗の真髄を知る事により、幻と言われた根来塗をその定義に沿って工程を検証し往時の根来塗を共に復興、産地名として「根来寺根来塗(ねごろじねごろぬり)」と致しました。先生の功績により今の産地が存在し、存続することを誓願致します。